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[変わらぬ医の形]ルールも、時代も変わったが・・・ [医療]

あんまり「医療ネタ」ばかりだとつまらないので、最近読んだ2/17付けの日経新聞の最終面に掲載された、工藤美代子さんのエッセイを紹介します。

工藤さんは1991年に『工藤写真館の昭和』という作品で講談社ノンフィクション賞を受賞され、その後も数々の作品を書いている個人的に注目している作家さんです。

タイトルは「原宿はらはら」と題して、彼女が生まれ育った地である原宿の思い出と、その別離(一昨年までずっと50年近く住民だったそうです)を語ったものでした。

彼女は6歳の時から原宿にすんでおり、昭和30年代初頭の原宿は今よりもずっと淋しい街で、表参道にさびしげに水銀灯が立ち、明治神宮の前には明治天皇と昭憲皇太后の肖像写真を売るようなしもた屋や魚屋さん、家政婦紹介所などが軒を並ぶ風景があったそうです。

それが東京オリンピックを契機に様々な形に変わり、のんびりとした住宅街だった竹下通りまで若者が占拠し、景色が一変し、若者の町へと変貌を遂げました。それでも残っていた八百屋も魚屋も近年にはなくなり、昨今は「平日の昼間」からお化粧をバッチリした中学生がコンビニでお昼を買って、その辺でたむろするような街となりました。
行き交う人も様変わりし、20-30万円もするようなブランドバックを持った若者が闊歩するにつれ、普通の商店があった場所には高給なブティックが立ち並び、生活の必需品を扱う店は少なくなってしまいました。
工藤さんは「あの頃が原宿の一番美しい時代だった。昭和三十年から四十年にかけてである」と語り、今や欲望の街になってしまった原宿を、離れたとのことです。

もちろん、これは「原宿」に限った描写でなく、週刊文春のエッセイを書いておられる小林信彦さんが東京オリンピック前の六本木の姿も同じように今と大きく異なることを指摘されていました。

自分もふと昭和40年代とかの病院や、指導してくれた部長のお話を思い出しました。当時は病院には下足番のおじさんがいたり、病院の薬は1包づつ紙でつつまれたり、水薬がメモリが入ったガラス瓶で受け取っていました。今では、「それホント?」って思うかもしれませんが、そんな時代だったのです。

これが自分が研修医時代に亡くなられた名誉院長が書き残したエッセイ集(図書室に寄贈されていました)をそっと読むと、昭和20年代は、自分のいた病院も今のように700床もなく、100床前後の小さい規模で、午前外来、昼間は往診、夕方から夕診を普通に行っており、お金がない家庭へは医師が赴くことが普通でした。

また、入院治療はとても高価なため、結核性腹膜炎でさえ自宅療養でした。今じゃ信じられませんでしょうが、超音波もCTもまともにない時代、腹水が溜まって患者の苦痛を取り除くため、3~7日おきに患者さんのもとへ医師が往診し、医師が患者さんの自宅でそのまま腹水穿刺を行う・・・というのが普通だったようです。

もちろん、重症となるといよいよ入院となるのですが、満足に救急車などなく「戸板」で運ばれ、入院したはいいが、まともな検査も治療もできず、2-3日でお亡くなりになっても、最後に病院で家族と医師に見守られながら、なすすべもなくそのままベッドで亡くなる・・・と患者さんのご家族からとても感謝されたそうです(当時は結核が国民病で30歳未満の若者も大勢死んでいましたが、当時はそういう時代で訴訟はありえません・・・患者さんも貧しかったのですが病院も貧しかったのです)。

もちろん、これはすべて昔話です。今は昔のお話です。もちろん、それを懐かしがるのではありません。

自分が見ているのは現在の医療の姿です。昔のように患者さんを「戸板で運べ」とか、患者を家で・・・なんていいません。

やはり病気の時に「適切」な治療を受ける権利もありますし、病院側も最先端は無理でも、標準的な治療を行う義務があります。

ただ、気をつけて欲しいのは、患者さんたちも我々医師たちも気づいていません。戦後60年の間に、医師は高額な医療機器に囲まれ、いつでも行える頻回の血液検査は、医療技術の向上を示すのにふさわしいのですが、昭和20-30年代は血液検査をすれば、検査技師はおらず、医師が遠心分離機を回し、血沈を測定したものです。

今は、逆に高度に進化したために、病院の業務の業務分担が進み、血液検査は技師さんへ、レントゲンは放射線技師、リハビリは理学療法士さんなど、お願いしています。ただ、患者さんにとっては「医師」や「看護師」さんが遠くなってから、訴訟が増えたのかもしれません。

昔より、飛躍の進歩をとげた画像診断により、診断や治療技術もはるかに進みました。ただ、患者さんとの距離が遠くなってしまったように感じます。しかし、この距離を「普通」に感じている若手の医師も増えました。しかし、患者さんは人間です、その距離を少し近づける努力を少しするだけで「気持ち」や「こころ」も少し、伝わります。

自分は、患者さんとの気持ちの交流の断絶が「医療危機」の裏側にあるのを感じずには居られません。

もちろん、当直明けでまともに回らない頭で、救急患者を診察したり、手術を行うような現状は「患者さんの安全」のため、好ましくないこと限りなしですが、それでも自分は自分の入院患者さんがリハビリに行ったりしていると、リハビリ室に足を運んだり、ちょっとした時間が出来れば病棟の看護師さんに変わったことがないか?という風には気を配っていましたが・・・。

今の救急病院ではそれが許されないくらい「厳しい現状」であることを理解しつつも、やはり患者さんとの「相互理解」がない限り、医療崩壊を押しとどめることは難しいのではないかと思います(クレーマーにはちゃんと対応する必要がありますが)。

今の日本の資金に限りがあります、工夫をしなければなりません。厚生省のルールは時代とともに大きく変わっています。そして医療技術も日進月歩です。

ただ、病気になった方の心をいたわりながら、医師が診察するのは今のところ不変なので、そのあたりをもう少し考えて行きたいところです。今日はなんとなく、いつもと違う「東京日和」ですみませんでした。

↓:私鉄の駅の改札口も変貌し、伝言板は消えましたが・・・「心」は不変ですね。
私鉄沿線 by:野口五郎

ぽち

  なかのひと


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