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100年前を振り返る:迎賓館の裏は「貧民窟」だった・・・ [健康]

 正月にふさわしく「2008年の予想」や「2007年を振り返る」みたいな記事が目立ちますが、日本の医療の未来については、[未来予想図]見なきゃよかった・・・( ̄ω ̄;) で書きましたので、思い切って100年前を振り返ることにしてみました。

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 明治32年(1899)に、毎日新聞記者だった横山源之助が、『日本の下層社会』(教文館)という本を出版している。これは、当時の貧民の実態を記述し、今でいう社会学的フィールド・リサ-チを先取りしたともいえるもので、復刻版が岩波文庫で出ている。その中で、横山は、東京の3大貧民窟として、四谷鮫河橋、芝新網町そして下谷万年町をあげている。首都として急激に発展しつつあった東京は、大量の安い労働力を必要とした。変動期にありがちの食いはぐれた人々、職を失い、土地を失い、住いを失った貧民たちが、職を求めて全国から東京を目指して集まってきた。しかし、まともな住まいはない、自分と家族の衣食住を確保できるほどの労賃を得られない。今でいうホームレスに近い。そんな人々が、吹き溜まる場所が貧民窟だった。

↓地図やイラストはこちら
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Samegabashi/Tky030122.htm


 大不況下の昭和初期、四谷鮫ケ橋小学校児童398人のうち残飯を主食にしている者が104人、同校旭町分教場の児童170人中残飯を朝食としている者31人、夕食としている者2人という事例が記されている(吉田英雄「日稼哀話」1930)。おどろくべきことに、大正時代に大阪の私立小学校では、残飯さえも買えない家庭の子供が、掃除当番を「先生、堪忍しとくなはれ」と断わったという事例が報告されており、わが国初の学校給食(当時は「食事公給」)導入の端緒となっている。P62「東京の下層社会  明治から終戦まで」

http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/168-tokyo_kasoushakai.htm


 ついでに芝新網町・・・

 東京の旧地名。芝区新網町。芝浜松町4丁目。現在の浜松町2丁目の一部。世界貿易センタービル南側。JR線に沿った地域一帯・・・モノレールの駅のあたりになります・・・

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C7%BF%B7%CC%D6%C4%AE

 下谷万年町・・・

「電車通りの向こう側、つまり北稲荷町から更に北へ、神吉町、山伏町と行って、その隣りに万年町という町があった。下谷万年町と言えば東京でも代表的な貧民窟とされていて、そこの小学校「万年小学校」は月謝を徴収しなかった。当時、東京の市立小学校は月謝二十銭ときまっていた。万年小学校は無料だったので、私たちは歌ったものだ。 ―――万年学校、タダ学校――― と。そして私たちの家は、決して金持ちではないが、人に憐れまれるほど貧乏ではない、と晴れ晴れしていた。しかし、こういう風に言う少年も居た。「万年町はいいぞ。おばさんが住んでいるから、よく遊びに行くんだ。するとさ、昼飯のお菜(かず)が無いときなんか、隣りの家へ行ってもらってくるんだ。お互い様だからかまわないんだよ。隣のおばさんだって、うちのおばさんことへ来て、おこうこ貰ってくよ、と台所から勝手に持っていくもん。まるで身内みたいなんだ」稲荷町のおかみさん達はそういうことをしなかった。それは家屋の構造がかなり原因していたのだと思う。万年町では明けっぱなしの家が多い。夏なんか余計だった。表通りを歩きながら覗くと、通りに面した家の、裏の家の、もう一つ裏の座敷の食卓のオカズまで見えたし、昼寝しているおかみさんの腰巻きの継ぎまで眼にはいるのだった。」
『鹿島孝二「大正の下谷っ子」』」

http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/mannentyo.html
地図みると・・JRをはさんで上野公園の反対側http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/syouwa16/mannen.html

http://www.uenogakuen.ac.jp/access/index.html

 ついでに100年前の株式相場:

 1907年(明治四十年)6月、日露戦争後のバブル景気がはじけてこれまでに経験したことのないような恐慌状態を呈し、東京米穀取引所理事長の片野重久が割腹自殺、横浜株式米穀取引所理事長の平沼延治郎が投身自殺するなど、日本中が右往左往していたときのことだ。
 恐慌のあおりで名古屋銀行はモラトリアム(支払い猶予)を余儀なくされ、取締役支配人の杉野は引責辞任する。名古屋を去るに際し、中京財界の有力者がこの敗残兵の兜町での再起を記念して開いてくれた。
 視に装束をまとった送別会など前代未聞である。「額に三角の白布を巻きつけて、はかまの威儀を正して『きょうまでの杉野喜精は死にました。おはずかしいが、もし取付が起きたら、切腹しておわびするつもりでいたのです』と挨拶した」

 杉野喜精(1870-1939年):明治3年生まれ、津軽藩士の家に生まれる。東京商業学校卒業後、1889年(明治22年)日本銀行に入る。1896年(明治)愛知銀行副支配人、1917年(大正6年)山一合資(山一證券)社長。1935年(昭和10年)東京株式取引所理事長

 彼の死後60年もたたずして、1997年(平成9年)、膨大な簿外債務が発覚、山一證券は消滅。


日本相場師列伝・栄光と挫折を分けた大勝負より

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 100年前の日本人の平均寿命は今の半分くらい・・・「資料『寿命』女子栄養大学出版部(2004.05.03更新) 」によれば・・・

「我が国の平均寿命が20歳を超えたのは、江戸時代の中期にはいってからという。後期になっても、感染症、戦争、飢鐘、地震、火災などの要因によって中期以降も20歳そこそこであるという。
 明治時代では明治13年(1880)に男女とも30歳の関門を突破し、大正に人って初めて男女とも平均寿命が40歳を超えたのである。
 
昭和56年男子73歳、女子78歳となり、菱沼氏は人類の平均寿命の限界値を男子77.4才、女子81.7歳としている。ちなみに昭和62年の平均寿命は男子75.6歳、女子81.4才である。

 平成18年の平均寿命は、厚生労働省の統計によれば、男の平均寿命は79.00年、女の平均寿命は85.81年です。

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 現在、日本人の平均寿命は「世界一」ですが、OECD諸国の医療費対GDP比でみると、医療費については30カ国中22位の8.0%である。一方平均寿命は世界一であり、米国とは逆に世界一効率的な医療が行われていると一般に見なされている。

 世界一効率的な医療を「もっと効率的」にという、政府関係者や御用学者が多いのがこの世の中ですが、もう少し現場を見てもらいたいものである。

 平均寿命が二倍になったのは、国が豊かになったおかげだ・・・ともいえますが、逆にいうと、そんなにお金をかけないで「易々と手に入れた長寿」を日本人はもてあましているように感じます。明治・大正年間は国民病であった結核で若者がばたばたと亡くなった時代でした。それだけ「死」が身近であったともいえます。現在は、誰もが長寿を満喫していますが、病院で亡くなったりすると「医者に殺された・・・」とかつらい経験を通しておっしゃるご家族までおみえですが、実際に医師が死に手を貸すことはありえません。

 日本人は、諸外国の平均寿命を超えてなお、生き延びられる時代になったのをまだ不足というのでしょうか?これは新しい課題でもあります。

 医療は「ドラえもんのポケット」と違い、有限な資源(ヒト、モノ、金)を利用しています。根本的には、過労死したりするほど勤務医や看護師は酷使されていますし、幸いなことに患者さんの待ち時間もイギリスやアメリカのように長くもありません。


イギリス:国外に緊急手術に出かける患者さん

 のように、心臓バイパス手術のために、飛行機で渡航する羽目になったりしないことを願っています。将来、自己負担が増加して医療費が支払えず破産したり、手術までの待機時間が半年先だと言われ、中国や韓国に渡航する羽目になったりすることを誰も希望しないでしょうが・・・。さて、100年先の未来の医療はどうなるでしょうね。

ぽち

  なかのひと 


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